研究会

江戸期の名医達に学ぶ:漢方研究会コラージュ

研究会

江戸期の名医達からの学びは、

非常に興味深い。

歴史を知るだけであるなら、

書籍を読んで頂ければ良いのです。

歴史を学ぶという事は、過去を学びこれからの

未来に向けて、どうあるべきか?

を知る事になります。

 

まずは、第一回の曲直瀬道三から

第四回の吉益東洞の出現までを

見ていきたいと思います。

 

☆第一回 日本漢方・曲直瀬道三とその医術

 

月湖から田代三喜へそして曲直瀬道三

に続く流れは、中国伝統医学であり、

金元の影響を最も受けている。

 

道三にとって最も注目すべきは、

医学全書『啓迪集』の著作であろう。

引用された文献をみると、

金元の四大家のうちでも特に

朱丹渓の影響を強く受けている。

道三は丹渓学派に属していると

言っても過言ではないだろう。

 

各論について

・病理論

『啓迪集』においては、陰陽五行説が

駆使されており、臓腑の失調や気血水の

乱れによって病気が生じる理由が要領よく

述べられている。

道三の基本は内経の考え方で説明

を試みる記載が多い。

・診断

『啓迪集』の全ての病門に必ず脈証の項目

を立てて病態との関連を説き、治療の指針

を与えていることからみても、

診断においては脈診に最も重点をおいている

ことが分かる。

・薬物論

道三が参考にした図書は、『本草発揮』や

『本草集要』と思われる。

道三は『啓迪集』の中で豊富な薬物知識

を駆使しており、膨大な薬物体系が

備わっていたと思われる。

・治療方法

『啓迪集』は「察証弁治」の書である。

それは、現代の中医学の「弁証論治」

とほぼ同じである。

などをレッスンでみていきましょう。

 

 

☆第二回 日本漢方・曲直瀬玄朔 道三の後継者

 

玄朔は道三の後継者として、道三流医術の

普及に努めた。

『啓迪集』が中国医書の抜粋から成り立って

いるが、時代的背景を考えると致し方のない

事かもしれない。

いづれにしても『啓迪集』は教科書として、

非常に良くまとまっている。

そのため玄朔は更にアップデートするの

ではなく、この医学体系をいかに運用する

のか?

そこを示す事が後継者としての役目と

考えていたようである。

玄朔の著書の中で最も考えが示されている

のは『十五指南篇』である。

この書は文字通り15の章より成り立っていて、

それぞれの項を玄朔が詳しく解説をしている。

やはりほとんどが中国医書からの引用である。

この点今から40数年前、日中友好条約が

結ばれた後、現代中医学が日本にどっと

入って来た頃に似ている。

 

『十五指南篇』の冒頭で玄朔は、

特定の説に偏ってはならない事を

以下のように強調している。

 

「広く『内経』を閲し、普く『本草』を伺う。

診切は王氏の『脈経』を主とす。

処方は張仲景を主とす。

用薬は東垣を専らとし、なお潔古に従う。

諸証を弁治するには丹渓を師とし、

なお天民に従う。

外感は仲景に法る。

内傷は東垣に法る。

熱病は河間に法る。

雑病は丹渓に法る。」

 

更に劉純の『玉機微義』の熱門から

引用して次のように述べている。

「張仲景の書のみを重視すると

どうしても傷寒が中心となり、

内傷病を誤って外感病としてしまう

恐れがある。

また李東垣の書だけを重視すると、

脾胃の働きだけを見るようになり

外感病を誤って内傷病としてしまう

恐れがある。

劉河間の書を重視するものは諸々の

病態を熱としてとらえ、寒の病態を誤って

熱としてしまう恐れがあるう。

しかしながら、『内経』に基づいて

行われるならば、自然に活発するであろう」

 

玄朔の医案集『医学天正記』をもとに、

当時の病態の把握について、

可視化してみたいと思います。

 

☆第三回 日本漢方・曲直瀬門下の俊秀たちⅠ

岡本玄治

 

初代曲直瀬道三が啓迪集を著し、

玄朔が継承・発展させた啓迪院を

受け継いだのは、

玄朔の女婿にあたる岡本玄治である。

玄治の医術は、道三・玄朔を継承したもの

であり、基本的には同じ方向性にある。

但し、道三と玄治には時代的なずれがある。

読んでいた書籍の違いとも言える。

道三が啓迪集を著す際に参考にした書籍は

引用回数からみると、

『医学正伝』・『医林集要』・『明医雑著』

などである。

玄治の時代になると、新たに参考できた書籍が

現れる。

『医学入門』・『本草綱目』・『万病回春』

などが大きな影響を与えたと思われる。

『万病回春』は江戸時代において非常に

多く読まれた書籍の一つであろう。

『和剤局方』も『万病回春』もHow to 本

の域を出ない。

ここ現代中医学と非常に似ていると

言わざるを得ない。

時代的な流れの中では、致し方のない事である。

後に曲直瀬流医学が衰退の一途を辿る運命に

あるのだが、、、。

 

玄治の症例をもとに、

どのような治療を行っていたのかを、

そして現代中医学に繋がる問題点について、

議論をしていきたいと思います。

 

☆第四回 日本漢方・吉益東洞

 

17世紀後半から18世紀にかけて、

日本の医学界は古方派と呼ばれる

人々を輩出した。

古方派という呼び方は、現在も広く

用いられているが、実際には統一された

体系を指しているわけではない。

1668年の『宋板傷寒論』の出版がきっかけ

となり、17世紀後半では江戸でも、京都でも

『傷寒論』の研究が盛んとなった。

ちょうどこの頃、儒学に復古運動が起こり、

これが医学の分野にも波及したことが、

古医学の原点である『傷寒論』研究に

拍車をかけたものと思われる。

18世紀前半には、香川修庵・山脇東洋

・並河天民・松原慶輔などが京都で

活躍しており、そして曲直瀬流医学の

凋落が始まった頃でもある。

このような状況において、

彗星の如く現れたのが吉益東洞である。

東洞も古方派と呼ばれているが、

上述の漢方医たちとは全く異なった面を

持っており、同一に論じる事はできない。

東洞の志は医療で生計を立てる事であったが、

治療を受けに来るものは稀でなかなか医療で

生計がたたなかった。

そこで、人形を作って問屋におろす副業を

していたのである。

そこで、山脇東洋との運命的な出会いとなる

のである。

森枳園の著『遊相医話』の巻頭に、この二人の

出会いがドラマチックに述べられているのは、

有名な話である。

 

それでは東洞の著作についてみていこう。

 

◇『医断』(1748年)

門人・鶴田元逸が東洞の医説をまとめた

ものである。東洞の医説の骨子はほぼ

含まれている。

曲直瀬流医学から始まる陰陽五行説を

正面から排撃しおり、毒を以て毒を制す

という独特の理論が紹介されたのである。

これには、賛成派と反対派に分かれて

論争が起こった。

 

◇『類聚方』(1751年)

『傷寒論』・『金匱要略』の中の220処方

について、その条文を抜き書きして、

適応症を浮かび上がらせたものである。

方証相対理論の運用においては、

必須の書物となった。

 

◇『建殊録』(1752年)

門人・巌恭敬が東洞の治験をまとめた

ものである。

東洞の臨床力を知らしめた書籍である。

 

◇『医事惑論』(1769年)

質問に答える形で東洞流医学を分かり

やすく解説している。

 

その他

◇『方極』

◇『方機』

◇『薬徴』

◇『古書医言』

◇『東洞先生投剤証録』

◇『丸散方』

◇『医方分量考』

 

賛否両論のある東洞について、

『建殊録』より東洞の症例をもとに、

検討してみたいと思います。

 

漢方研究会コラージュ

漢方コラージュ代官山

戸田一成

代官山 東京

 

Lab collage(漢方研究会)

 

 

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